誰も戦争を教えてくれなかった

まん丸のお月さまを見ると、お煎餅が食べたくなる。
中秋の名月も過ぎて、まん丸月も半分くらいになりました。



『誰も戦争を教えてくれなかった』 古市憲寿/著 2013年 講談社
誰も戦争を教えてくれなかった


〜世界の“戦争博物館”から見えてきたものは〜


この著者の持ち味は、“正直さ・率直さ”と“不謹慎”の危ういバランスの平均台の上をすいすい歩いて、不意に真実を突くようなところだと思う。

28歳の若者が、世界を旅した紀行文。一面からいえばそんな本だと言えなくもない。が、しかし、テーマは戦争博物館巡り。ハワイのパールハーバーを軽い気持ちで訪れたことをきっかけに、「新しい土地へ行くたびに戦争に関する博物館を訪れるようになった。」という著者。『絶望の国の幸福な若者たち』で注目を浴び、現在、執筆にメディア出演に精力的に活動を続ける社会学者だ。ここでいう“戦争”とは第二次世界大戦のこと。「戦争博物館へ行けば、その国が戦争をどのように考え、それをどう記憶しているのかを知ることができる。」という(序章より)。なるほど、そういうサンプルの取り上げ方があるのかと思った。

アウシュビッツから、中国、韓国‥観光をしながら博物館に立ち寄る旅行。日本では沖縄、広島、東京‥。それぞれ詳細なルポだ。同時に関連の書籍や統計などを参照しつつの周辺事情の説明も加えられている。
中国では現地の若者たちとの交流もある。歴史の話をしようとしたがそれは空振りで、でも街歩きが楽しそうだ。
また、訪れた国々で、“平和学習”の“校外授業”らしきグループを見かけたりもしている。
各地のこういったちょっとしたこぼれ話が面白く感じだ。


戦争博物館といえども、“博物館”というものの性格上、楽しませる要素、エンターテインメント性などの観点からも突っ込みを入れていて、またその他にもそこまでいうかと思うところもある。その表現はちょっと‥というような。「不謹慎だが」と前置き付きの記述もある。戦争を知らないのは著者と同じだが、若くない世代の自分はつい若者がやることをハラハラしながら見てしまうのだろうか。だが、それはそれとしてさておき、興味深く読み進んでいくうち次第に、現状とこれからのことに対してより切実な気持ちになってきた。

“あの戦争”に関して、日本の場合、国として「大きな記憶」を持てないでいる(移ろいやすい国内の共通意識や、外交上の立ち位置、etc.‥)その微妙なかんじは戦争博物館・平和博物館の展示にも表れているようだ。だが、戦争は経験した人の数だけ「小さな記憶」がある。「小さな記憶」を伝えるものは、博物館や教科書にあるのではなく、「少し目をこらせば、僕たちのまわりに溢れていることに気付く。」という指摘には、はっとさせられた。
戦争中沖縄ですんでのところで命を落とさず生き延びたという女性と話す場面がある。「小さな記憶」に向き合う彼の誠実さを感じた。

また、“戦争=第二次世界大戦”と同一視してしまうことで、現在進行中の小さな戦争、紛争、テロを見落としてしまう可能性や、宇宙戦争やサイバー戦争がSFの世界の話でなくなってきている現実にもページが割かれている。は〜本当なのか‥?。事態は私の想像を超えて進んでいる‥。


多くの文献・資料を渉猟し、各地を自らの足で回り、“あの戦争”を自身の視点で相対化し考えを巡らしている。その成果を読者として素直に受け取りたいと思った。(などと、本職“学者”に対して“多くの文献・資料を渉猟し”などと言うのは全くもってヘンなことなんですが)