ゲゲゲのげ

去年の夏に観たお芝居です。



『ゲゲゲのげー逢魔が時に揺れるブランコ』

作・演出・出演:渡辺えり
オフィス300(さんじゅうまる) 音楽劇
日時:2011年8月22日 19時〜 場所:座・高円寺



〜鬼太郎たちとさまよう 幻想の迷路〜



誰か他の人の夢の中に入り込み、一緒に体験しているようなお芝居だった。


開演前の会場に足を踏み入れると、舞台は病室のようで、しつらえられているベッドには老女が横たわっている。

客席は、舞台の正面、右、左の三方にある。それぞれ5〜10列程度の小ぢんまりした会場だ。私は右側の席だった。

舞台奥、上の方にはまた舞台がある、というか、二階のようなかんじで、四人編成の楽団はここにいる。芝居が進んで行くと、役者たちもこの二階を行ったり来たりする。

更にその上方には、木の枝がまがまがしく絡み合っていて、それは左右の客席の上方にまで及んでいる。(美術:加藤ちか)


最初の場面は、ベッドに横たわっている老いた女を母と娘三人が心配そうに覗きこんでいる。それでいながら夏休みの相談をしている。
次のシーンになると、舞台は更地に。この土地をようやく買い取ったというおじさん(松村武)に、どうしてここを?と顔見知りの小学生(若松力)が質問している。
暗転すると、正面客席奥からけたたましい木琴やリコーダーの音。ランドセルしょった子どもたち(演じるのは大人の役者たち)が押し寄せ、舞台は5年3組の教室になる。
いじめられっ子のマキオ(吉田裕貴)は先生(土屋良太)からも疎んじられていて、廊下で正座して給食を食べさせられる。(廊下は客席通路)

そんなマキオのSOSを受け、ゲゲゲの鬼太郎中川晃教)が舞台二階部分から登場。黒と黄色の太い縞のちゃんちゃんこに下駄履き。するといじめっ子のクラスメートたちは突如河童になり猛攻撃をしかけてくる(この部分はミュージカル仕立て)‥


更地〜教室〜妖怪たちの戦い、お話はここらへんを何往復か行き来し、脈略のなかったものがだんだん繋がり始める。土の匂いのするような濃密な空間に身を任せ、詩のように夢のようにどこかに連れられていく感覚。人が生きているのは、その人が気づかないところで誰かの何かの犠牲の上にある。残酷なことだけれども、それは人の原罪のようなもの。最後の場面でベッドの上の老女が誰なのかわかった時にそう思った。どたばたしたり洒落や冗談が散りばめられているが、テーマは深い。一緒に観に行った友人がそんな感想を口にしたが全く同感。


中川晃教くん扮する鬼太郎は、右目の中に父親の“目玉おやじ”がいるという設定。“おやじ”が話す時は甲高い声を使い腹話術のよう。下駄履きなのに身のこなしがとても軽い。漫画から抜け出してきたような出で立ちがよく似合っている。しゃがれた声で時代がかったしゃべり方。妖怪との対決で「逆もまた真なり!」と大見得を切るところなど、アングラ劇のヒーローのような風格があった。また彼が劇中、別の役で登場し大人になったマキオの首を絞めようとするシーンは、一瞬にして狂気の表情になり舞台が近かっただけに恐かった。(歌ももちろんいつもながらいい。)


“給食のおばさん”は仮の姿、実は“砂かけ婆”だった広岡由里子の変幻自在の演技も印象に残った。彼女がマキオの母・日出代(渡辺えり)になりすますところもおかしい。広岡・母はやせ型で、ふっくら型の渡辺・母とは風貌が全く違うのにマキオがだまされるのが滑稽だ。


そのマキオの家で押入れから現われた一葉(馬淵英俚子)は美しかった。死産だったマキオの双子の姉の一葉。ビワの実を差し出すが、食べたら“あちら側”に行って戻れないと告げ「私の夕方5時を返して」とマキオに詰め寄る。幻想的だが真に迫ったやりとりが繰り広げられる。


観劇前に目にした一部の劇評にあったように、確かにわかりやすいお芝居ではない。でも観客をすぅっーと引き込む力がある。この舞台の初演は1982年。この作品で渡辺えり(当時:渡辺えり子)は岸田國士戯曲賞を受賞している。

この「ゲゲゲの〜」では、テンポの速いセリフの応酬の中で、“あちら側”と“こちら側”が入れ替わったり、東北にあった“更地”が池袋になったり、あれっと気づいたら時空を超えている。方向感覚を失いそうだ。そこに、スイッチオン・オフと切り替えるようなわかりやすい演出はない。想像するに、この舞台を二十数年ぶりに再演するにあたり、そういったところは変えなかった(敢えてわかりやすくはしなかった)、たとえそれがデジタルな現代の環境(文化も含む)に慣れ切った私たち観客にハードルが高く感じられようとも。でもそこに意味があると思う。
昔のお芝居は、こんな風に観客の想像力に大きく任せるものだったのかもしれない。‥と、“昔”を漠然とひとまとめにしてそれをこの舞台に代表させるのは乱暴で短絡的であるけれども、そんなことをぼんやり思いつつ、逆にそのあたりが新鮮に感じられた。


“偶然にも3・11以後の価値観と通じるものが多い戯曲である。”公演パンフでこの劇作家は述べている。

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「ゲゲゲのげ」の世界のうねりは、観劇後も、さざ波のように小さく、どろりとした液体のようなものとして残った。
その後他のお芝居を観に行く時なども、舞台のどこかに、あのどろりとしたうねりが潜んでいるかもしれないという感覚を抱くことがあり、そう感じることは自分にとって一つの変化だと思う。