冨士山アネット 八

8月31日といえば、学生時代は汗と焦りと心細さの日。
夏休みの宿題ではないのですが、6月の舞台の感想です。




『八』
冨士山アネット
作・演出・振付:長谷川寧
日時:2012年6月1日(金) 19時〜
場所:イムズホール
[第6回福岡演劇フェスティバル 参加作品]



〜セリフなき物語ダンス〜



今年の福岡演劇フェスティバル最後に登場した作品だ。会場はイムズ・ホール。4月に観た、ままごとの「あゆみ」もやはり演フェス参加作品で、会場も偶然同じところ。客席が舞台を挟み対面式になっていて、この点も「あゆみ」と同じ。しかし舞台の様子は随分違う。会場のまん中あたり端から端まで花道のように細長い舞台が設けられ、そのこちら側とあちら側に観客が座るようになっている。私の席から見てステージの右端に黒い幌で囲われたようなものがある。左端にはソファ、その後ろに長い簾状のものが掛かっている。


冨士山アネットは一度観たことがあり、とても面白かった。ジャンルはダンスというかパフォーマンスというか。でも単なる“踊り”ではなく、ひとつの物語を表現している。ただ、お話を表わしていることはわかるが、セリフもなくパントマイムでもないので、具体的な筋はわからない。わからないけれども目が離せず見入ってしまう。そんな舞台だった。(観劇記録はhttp://d.hatena.ne.jp/chihiroro77/20110519/1305820315 http://d.hatena.ne.jp/chihiroro77/20110523/1306160470)

公演が始まる前に配布されたA3二つ折りのリーフレットに、あらすじが記載されている。開演待ちの会場で、筋は知らなくても楽しめるけれども事前に読んでおくことをお勧めします、という内容の肉声アナウンスが関係者の方からあった。

そのあらすじとは。心理療法士と作家(脚本家)が登場。作家は、本が書けないと悩み心理療法士の許に通い詰めるが、悪夢にうなされ、次第に行動がエスカレート。心理療法士をモデルとした本を書き始め、巻き込まれたモデルの療法士は、現実と作家の書いた作品との境界がわからなくなっていく‥


出演者は右側の黒い幌から姿を現わす。

心理療法士とおぼしき登場人物は大柄な男の人だった(大石丈太郎)。白いジャケットのうしろに羽根を広げた大きな蝶々の模様。私は、梅ちゃん先生じゃなくて“蝶々先生”と密かに名付けた。

暖色系の横縞ニットスーツを着ている男性は、長い髪を後ろでひとまとめにしている。自由業の雰囲気を醸し出していて、この人が作家か、とわかる(玉井勝教)。

女性陣は二人。心理療法士の婚約者(関典子)とアシスタント(政岡由衣子)。

フードのついたジャケットを羽織っている男の子は、また別の患者(大園康司)

“俳優”を演じるのは、この舞台の作・演出・振付を担当している長谷川寧。彼も背中に蝶々の模様のあるスーツを着ている。この“俳優”は、“作家”の書いた舞台に出演する“俳優”ということなので、蝶々模様のジャケットを着ているということは、劇中劇(?)で心理療法士“蝶々先生”を演じているという印なのだろう。


音楽はピアノがメインの抽象的な曲。
ステージにするするとスクリーンが下りてきて映像が映し出される場面もあった。「8」などの数字が映り「これがなにに見えますか」とスピーカーから女性の声が流れる(酒瀬川真世)。映像に合わせて役者(ダンサー?)たちがコミカルな動きをして可愛かった。

踊りは緩急があるが、全体にダイナミックな印象。
やっぱり面白い。緊張感が途切れず、成り行きを追ってしまう。


ただ客席が細長い舞台に沿って設けられているため、私が座ったところからは、左のソファのあたりがよく見えず、もっと後ろ高い位置の真ん中へんの席に座ればよかったと思った。


開演前に読んだあらすじをベースに、だんだん作家が横柄になってきているなぁ、とか、このあたりは悪夢だろうか、とか、自分の頭の中にストーリーが漠然と巡ってくる。
作家は、途中で蝶々模様のスーツを着て心理療法士になりすましたり(‥“なりすました”というのは私の想像だが)、人の婚約者を誘惑したり(多分)、暴れん坊ぶりを発揮。心理療法士もそれに対抗するのだが、男二人の攻防は躍動的でもあり、またちょっとおかしさを誘うところもあった。

他のメンバーが本を読みながら登場したり、また大勢が入り乱れてひとりひとり紙を手に手に駆け回り、ひらひらと白い紙が暴力的に揺れるシーンが印象的だった。


この舞台は10年以上前に長谷川氏自身が書いた戯曲「鼻男」が基になっているとのこと。

公演後にアフタートークがあり、ゲストは「のこされ劇場」演出家の市原幹也さんだった。

冨士山アネットの舞台は、セリフのある普通の演劇のシナリオを、まず、そのまま稽古して、それが仕上がってからセリフをなくして振付を考えていく、そういう作り方をしていることは前回のアフタートークでも披露されたが、今回のトークでもその話が出て、やはり同じ手法で作り上げたということだった。
骨格をしっかり持っているものであれば、抽象的であっても、そうは感じず見入ってしまうのだろうか。面白さの秘密をそこらあたりに探りたくなる。

ある時から物語を信じられなくなり、いきついた表現方法がこれだと述べる長谷川寧さんだが、観ている方は、やっぱり物語やストーリーを想像して、その世界に引き込まれてしまう。観客は物語から逃れられないのだろうか。アネットと観客と物語の抜き差しならぬ関係。その引力が興味深い。
またトークでは、外国語の映画(字幕なし)や能の舞台を観たときの感覚についても触れられていた。確かに言葉がわからず動作だけで推し測るところは冨士山アネットの舞台と共通していると思う。



後から気づいたのだが、チラシやリーフレットに蝶々の形に似たデザインが、そこかしこにある。それは蝶々ではなく、ロールシャッハのインクの染みだ。ということは、あのジャケットの模様はロールシャッハだったのだ。それが私には蝶々に見えた。蝶々先生改めロールシャッハ先生、なのだった。