奇ッ怪 其ノ弐

去年の秋に観たお芝居です。

気づいたら、2012年も半分過ぎていて、そろそろ今年観た舞台の感想をアップしたいものです。。
早く追いつこうぜ、自分。目指せ、リアルタイム。



『奇ッ怪 其ノ弐 ―現代能楽集VI―』

作・演出:前川知大
出演: 仲村トオル 池田成志 小松和重 山内圭哉
    内田 慈 浜田信也 岩本幸子 金子岳憲
日時: 2011年9月10日(土)13時〜
場所: 北九州劇場 中劇場



〜コトが起こってしまった後の世界は〜



舞台の上に、大きな台がある。舞台の面積とほぼ同じくらい。左右に人が通れるスペースは残されている。その台には傾斜がついていて奥の方が高くなっている。芝居が繰り広げられるのは、ほとんどその台の上。客席からは見えにくいが、ところどころに穴がある。劇中、人が落ちるシーンが何回かあり、観客はそれに気づく。また、登場人物がそこからひょっこり顔を出す場面もあった。(美術:堀尾幸男)


 ここは廃墟の村に残る神社。何年か前に地震とそれに伴うガス爆発で多くの人が命を落としゴーストタウンと化している。この村を温泉地として再開発しようとする業者・橋本(池田成志)、地質学者・曽我(小松和重)、神社に勝手に住みついている山田(仲村トオル)、神主の息子・矢口(山内圭哉)、この四人が神社で出くわし、彼らの会話でこの集落の過去・現在がわかる。そしてそれぞれが最近見聞きした気になる出来事を語る。臓器移植にまつわることや、うつ病を治療する無免許の医師の話などだ。それが劇中劇で再現されるが、ひとつひとつが独立したしっかりした話だ。その後、またこの廃墟の村の話に戻り、数年前、災害に見舞われたあの日、村祭りの準備に追われている場面が語られ始める‥。


作・演出の前川知大は劇団・イキウメを主宰。劇団のお芝居も今回のような劇団外の作品もいくつか観ているが、日常から少し軸足をずらした不思議な異界が描かれ、コミカルだけどちょっと恐くて、ずしっとくるけど心地よくもある、そんなところに魅かれていた。だが、今回は“心地よい”という余裕はなかった。何回かぞくっとした。恐かった。
題材がここまで“直球”だとは思わなかった。“ガス爆発”と現実と設定を変えてはいるが、震災の半年後にそれをテーマにした作品を上演する、一歩間違えば不謹慎では‥?また観る側はそれをどう鑑賞したら‥・?と、その意味でも少しドキドキもした。しかし観劇後、公演パンフレットや前川氏のブログ(http://porkpie.blog10.fc2.com/blog-entry-160.html)で「鎮魂」という言葉を目にして、そうだったのかと思った。


この作品は『奇ッ怪 其ノ弐』。“其ノ一”の方は『奇ッ怪〜小泉八雲から聞いた話〜』(2009年)。これは八雲の短編に題材をとりながらも現代的な舞台で、登場人物たちの話が劇中劇で表わされる形式。この形式は今回も引き継がれている。また本公演は“現代能楽集VI”でもある。能の特徴的パターンとして、亡霊が過去の出来事を語り、それが舞台で物語として展開されるというものがあり、それは偶然にも2009年の『奇ッ怪』と同じ構造であったため、そういったことからも、この“劇中劇形式”を引き継いだそうである。(公演パンフレットより)


“神社”で話をしている四人の周りには浮遊する人影がわらわらと現われたり消えたりする。白いお面をつけて、手をふわふわさせ身体をくねらせる(振付:平原慎太郎)。このあたりに漂っている魂ではないかと、四人は話している。
そこは、死者と生きている者、こちら側と向こう側の境界線が曖昧な空間だという印象。ラスト近くに、更にもっと“曖昧”であることがわかり驚く。(能の語り部が誰であるかをキーとして考えたら構造上は自然なことなのだが。)


8人の役者は皆さんしっかりした演技で、劇中劇も含め一人何役もこなしていた。
そんな中、劇団イキウメのメンバー浜田信也、岩本幸子が登場すると、やはり落ち着くという気がした。前川知大が描く世界になじんでいるからか。(それともイキウメの舞台を何回か観ているので私が彼らになじんでいるせいか。)
金子岳憲は初めて観たけど、これからもちょっと注目していきたい。


そして、目をひいたのは内田慈ちゃん。
彼女を観たのは2回目だけれども、たとえ妙な役であっても、可憐さが、ぽっと灯るようなところがある。今回の何役かのうち、精神科に通院する不安定な女性の役があったが、手が震えて危ないかんじなのに、完全に痛々しくはならない。
儚いような苦味のある可愛いさのような、そんな彼女の存在は、この舞台にあってちょっとした救いだった。


深刻なテーマであるけれど、いつもの前川作品同様、ユーモアのあるセリフも随所に散りばめられている。洗練された素晴らしい舞台であることも変わらないが、“素晴らしい”というと語弊があるような気がする。力を振り絞ったものが感じられ、この時期にこのテーマで遠心力がついて更にずんとくる舞台になったと思う。
背中がぞくっとしたのは、おどろおどろしい恐怖のせいではない。その恐ろしさは、現実として受け止めなければならないものだと思うし、だから余計恐いのかもしれない。