死神の精度

きのうの夕方、職場を出ようとしたら、雨が。あわてて置き傘を取りに戻る。久々の雨。
これは↓夏に東京で観たお芝居です。


『死神の精度 7Days Judgement』


原作:伊坂幸太郎 脚本・演出:和田憲明
日時:2009年8月27日(木)19時〜 場所:シアタートラム(東京)



〜雨音にとじこめられた 男四人の高密度な磁場〜


すごいものを観た。
ビルの屋上だろうか。四人の男がいるのは。背景は白い雲によく晴れた青空。これは芝居のチラシ。公演パンフは落ち着いた空色。だが、舞台ではずっと雨が降っている。しとしと、ひたひた。雨が醸し出す暗さ、湿り気。その中で、微熱を帯びた舞台が白く発光していくようだ。

原作は伊坂幸太郎の小説。金城武主演で映画化もされたが、両方とも触れないままの観劇だ。

死神たちは、この世に人間の姿になってやってくる。そしてある人物を調査し、その人が「死」に適しているかどうかを決める。「可」(=死)か、「見送り」か。調査期間は7日間。判断基準は曖昧でたいてい「可」らしいが。
今回、死神(香川照之)は千葉という四十代の男の姿で地上に赴任、調査対象は中年のやくざ男、藤田(ラサール石井)。彼の隠れ家へ首尾よく入り込み、藤田を盲目的に慕う若いチンピラ阿久津(中川晃教)と三人、奇妙な同居生活が始まる。時折、死神の同僚(鈴木省吾)も現われ情報交換。人間界は死神たちにとって外国のようなところなのだろうか。彼らの醒めた目での観察が笑いを誘う。

組同士の諍いや、組内部での力のバランスで、いつどこで誰が殺されてもおかしくないやくざの世界。だが死神が担当しているのは一人。一体死ぬのは誰なのか。そして誰が敵で味方なのか。天秤がこっちに傾いたかと思うと、次にはあっちに傾いている。スリリングな展開の中で人間関係の謎解きがある。そしてユーモアのあるやりとりで時々緊張をほぐしながら話は進む。藤田は「可」なのか、「見送り」なのか。死ぬ前に仇は打てるのか。

やがて空間は次第に不思議な熱を帯びてくる。舞台はそこだけの重力を持ち、その磁場の上で自動仕掛けのように自然に動き、加速していく。俳優は演じているのではなく、登場人物その人の引力でふるまい始める。
クライマックスに向かい芝居はお芝居でなく、自然現象のような浮力で回り出す。切れ味は増していく。
そんな光景に吸い込まれた。


チンピラ堕天使・中川晃教


登場人物は主に4人のみで、時折エキストラが姿を現わす。4人は4人とも役に同化しているように見えた。中でも、ストレートプレイは初めての中川晃教は何かが乗り移ったかのようだった。

彼は下っ端の組員・阿久津。「うっせえ!(うるさい)」「ふざけろ!」(“ろ”が巻き舌気味)を連発。長い金髪頭でまん中あたりは黒髪。ピンクのトレーナーにオレンジ系のパンツ。ふらふらのハイテンションで人格が壊れかけているが、ラサール石井扮する藤田を無条件に崇拝している。‥かと思えば、ぺロっと舌を出して藤田は自分の手で殺す、と同居人の千葉(実は死神)に漏らしたりする。事態が切迫するとパニックになりバタバタ走り回る。藤田を守りたいのか消したいのか、屈折し、引き裂かれている。
部屋の隅で膝を抱えてじゃがいもの皮を剥きながら、千葉にしんみり語る場面がある。自分が幼い頃、両親が殺されたことを。ガラ悪くわめき散らす普段の態度とは裏腹な、哀れで荒涼とした彼の内面。
晃教くんをチンピラ阿久津に抜擢したのは誰だろう。ミュージカルを中心に活動してきた今までとは180度異なる役柄、歌わない彼はどうなのか、期待と不安半々の気持ちだったのだが、全ては吹っ飛んだ。暴発寸前の塊のようなエネルギーを剥きだし、恩人に向かい刀を抜いたり引っこめたりする。が、いざという時は震えて肝が据わらない。打って変わって藤田のために嬉々としてチャーハンをつくる。支離滅裂で狂気すれすれでありながら、垣間見える無垢なひたむきさ。ひりひりした感情が痛いほど伝わってきた。

昔気質の中年やくざ藤田=ラサール石井。任侠を重んじるあまり組織内でも持て余されるが、 “弱気を助け、強気をくじく”筋を通し続ける。光り気味のYシャツにズボンという、いわゆるそういう人のいでたち。「千葉さん、あんた面白いねぇ。」得体の知れぬ闖入者・千葉に対して、敏感に死の匂いを嗅ぎとりながらも、どこか達観したふうでもある。やはり彼も千葉にしんみり語る。まだ小さかった阿久津を連れて奥入瀬(おいらせ)へ行った日のことを。川のきらめきが眼前に広がり、リトル阿久津がそこにいるかのような話しぶり。そんな彼はテレビでよく目にするラサールではなく義理堅いやくざ・藤田そのものだった。


死神と音楽と雨


死神たちは人間界の“ミュージック”をこよなく愛している。天井からするするといくつかのヘッドフォンが下りてくると、そこはCDショップの視聴コーナーになった。男女数人が聴き入っている。それが彼ら死神。大幅にセットを変えることなく場面がすっかり変わり面白かった。

人間の「死」には興味がないクールな死神・千葉=香川照之だが、彼もミュージックには首ったけ。藤田の部屋で流れたのは、ローリング・ストーンズの“ブラウン・シュガー”。それから、甘い女性の声のジャズ。(この歌手は、かつて千葉が担当しながらも、この世に残されたという) 「ミュージックッ!」と叫んで、音楽を聴いている時は、とろ〜んとしている。舞台まん中あたりで体を斜めにしたまま動きが止まってしまうのだ。白いシャツに黒いパンツ。下半身がすっと締まっているので、その姿が幽霊っぽいといえば幽霊っぽい。自然体の死神だった。

黒を基調にした姿で時々現われる死神の同僚(鈴木省吾)。立ち居振る舞いは飄々としていて、そのくせおしゃべり。要所要所で登場し、人間じゃない雰囲気を出していたのが、アクセントになっていた。

音楽が流れていない時は、絶え間ない雨の音がBGM。千葉が地上にいる間は必ず雨が降るらしい。ドアを開けると雨音が大きくなり、閉めると元に戻る。雨のひんやりした空気が伝わってくるようだった。


舞台の隠れ家から外の世界へ


会場は200人程度の規模で、客席の列はかなり傾斜がある。最後列でも舞台が近く贅沢だ。
舞台スペースの大部分が藤田の隠れ家。中央部から左上に向かって階段が延びており、上りきったところがドア。そこから表へ出ると外の階段は客席の方を向いておりてくる。ドアの高さと同じところに手すりのついたスペースがあり、隠れ家ではない別の空間に見立てられたとき、死神たちがそこに立っていたりする。部屋にはソファーセット、左かべあたりにステレオ、右かべ付近はひき出しなど(後半ここから拳銃が取り出された)があり、やくざの部屋ながら、なかなか垢ぬけている。
立体感のある洗練された舞台装置で、大きなステージではないが奥行きが感じられた。(美術:長田佳代子)

藤田が死神・千葉に、阿久津の生い立ちや幼い頃のことを問わず語りに話している時、堕天使・晃教・阿久津は何も知らず左側の外の階段を降り、傘をさしてうろうろして、表へふらりと出かけていく。舞台のまん中と、壁一枚隔てて左の空間との対比が、せつなさを出していた。

隠れ家には、客席から見て正面奥に、もう一つ大きなドアがある。
終盤に、そのドアがさぁっと開いて、大雨の中、藤田が姿を現わす場面が最も印象的。忘れていたが、はるか昔に一度だけ紅テントの芝居をみたことがある。その芝居ではラストに前方のテントの幕が開け放たれ舞台は外界へと広がっていった。そんな忘却の彼方にあった記憶が蘇った。隠れ家の正面のドアが開いた時、雨音が強くなり舞台はこの小さな空間を超えて外へつながっていった気がした。

冒頭に述べたように、物語は後半一気に加速し、舞台はそこだけの磁場で自然に動いて、芝居はお芝居ではなくなっていた。これは一体何のたまものだろう。役者もセットも音楽もいい。(演出や脚本については善し悪しがわかるほど詳しくないのだけど、多分いいんだと思う) でも、全てよくても、ああはならないだろう。裏方スタッフを含めた総合的な力に加えて、どこかで何かが、臨界点を超えたんだと思う。劇中で、「死」がすぐ隣にあるからこそ「生」が凝縮され光り出したように、ぎりぎりのところで何かが作用して舞台に独自の重力が生まれたのだろうか。観客はそれを目撃し、同時に体験できた。圧巻。

小説も映画もみていないので比較はできないが、この体験は正に生の舞台ならではのものだった。