ミス・サイゴン

今年2009年最初に観た舞台が、博多座の「ミス・サイゴン」でした。

この観劇は、大野城まどかぴあ(大野城市文化施設)で行なわれた『第2回劇評ワークショップ』の課題でもありました。受講生は舞台を観たあとに劇評を書き、講師の演劇評論家扇田昭彦氏の講評を受ける、というようなワークショップ。2008年度にも開催されていて、私は2度目の参加でした。同じものをみても人によって感じ方、表現法、着眼点などまちまち。参加者はもちろん芝居好きな人たちばかりで、扇田さんはそれぞれの書いたものを決して否定せず、それでいてわかりやすく文章を手直しするというやり方で、面白く有意義な経験でした。

これはその時の劇評。筋が結末まで書いてあります。丸わかりです。加えて辛口。
話の筋を知りたくない方、この舞台の批判を聞きたくない方は、読まないでくださいね。


追伸:でも、異議あり、や、ご意見などは自由にコメント欄へ。歓迎です。


ミス・サイゴン

クロード=ミッシェル・シェーンベルグ:作曲  アラン・ブーブリル:作詞
日時:2009年1月21日 18時〜  場所:博多座


〜全てを終わらせた一発の銃声〜
                                              

博多座開場10周年記念、鳴り物入りのミュージカル「ミス・サイゴン」。 ダイナミックで迫力満点、耳に残るメロディー、舞台装置も期待に違わず素晴らしい。しかしそれも、銃声が響く唐突なラストでぷっつり途切れてしまった。

ベトナム戦争末期。米軍の旗色が悪い陥落直前のサイゴン(現ホー・チミン市)。物語の中心はアメリカ兵・クリス(井上芳雄)と、キャバレーで体を売って働くベトナム少女・キム(新妻聖子)の悲恋。二人は恋に落ちるが、クリスは帰国、アメリカで結婚し新生活を始めたのに対し、ベトナムに残るキムは、クリスの間にできた息子タムを育てながら、彼が迎えにくるのを待つ日々。
象徴的なシーンがある。ボロ小屋で暮らすキム。クリスへの想いを切々と歌う。同じ舞台上に2階の部屋が現れベッドが置かれている。アメリカのクリスの部屋。彼の妻エレンは戦争の悪夢にうなされキムの名を口走る夫を心配する。
鈴木ほのか演じるエレンの歌は、落ち着きのあるハスキーな声で高音は伸びがあり、包容力のある大人の女性の雰囲気。井上クリスは、高く優しく澄んだ歌声。煩悶する場面は長い手足をばたつかせ激しい。その場面場面では誠実でありながら結果として三角関係を招いてしまう正直で罪な男を素直に伸びやかに演じていた。
他の登場人物も個性的。乱世をしたたかに生きるキャバレー経営者エンジニア(筧利夫)。クリスの友人ジョン(岸祐二)は安定感のある低い歌声で全体をひきしめていた。
翻って、キムはどうだろう。ひたすらひたむきで、ただ献身的。新妻聖子は少しビブラートのかかったきれいで儚げな歌唱で持ち味を出していたが、ここで問題にしたいのは演じ手ではなく役柄自体だ。戦火を生き延びてきた娼婦である。息子を守る働く母親である。純粋なだけであるはずがない。そしてラストではピストル自殺。なぜ?誰かキムの心理分析をしてほしい。依存症か?精神を病んでいたのか?
空から登場する米軍撤退用のヘリコプターや、金色の巨大なホー・チミン像と兵士たちの整然とした群舞(社会主義を思わせる赤が印象的)など、社会情勢も大がかりな仕掛けで見せられる。だがそんな時代背景も、逆境にあって一層燃えるつらい恋を盛り上げようと意図されたのでは。都合のいい筋運びに少々勘ぐりたくもなった。

キムの自殺は物語を破綻させた。生きて闘って、井上クリス芳雄が悩む姿をもっと見せてほしかった。

私が涙したのは、2幕目の冒頭。大きなスクリーンに米兵とベトナム女性の間に生まれた大勢の子どもたちの映像。彼らの境遇を訴える合唱とジョンのソロ。幼い子どもたちの無邪気な笑顔に「地獄に生まれたゴミ屑」という胸を切り裂くような歌詞がかぶさる。ここでのジョンの歌唱は圧巻だった。この場面は全世界からのベトナム戦争への贖罪のように思え、いつまでも胸に響いた。