"野球"の名づけ親 中馬庚伝

いつの間にか交流戦まで、あと7試合となりました(←ホークスの場合)

シーズン前WBCもあり、そわそわしていた3月初旬、球春の序章として読んだ本です。

 

 

『"野球"の名付け親 中馬庚(ちゅうまん かなえ)伝』

1988年刊 ベースボール・マガジン社

“野球”の名付け親―中馬庚(ちゅうまんかなえ)伝

amazonより↑)

 

この本は、ベースボールを「野球」と訳して、このスポーツの普及に寄与したという中馬庚の伝記だ。また彼は『野球』という著作もあらわしていて、昭和45年に野球殿堂入りしている人物。

 

ここで、あれ?正岡子規は?…と立ち止まった。

はしがきには、こうある。「巷間、俳聖子規が「野球」の訳者であるという説が流布されている。」これは昭和63年(1988)の出版だが、私も今でも漠然とそう思っていた。

だが、この本によると、子規も確かに明治時代に「野球」という語を用いたが、それは雅号として使っていたもので、本名の『升(のぼる)』をもじって「のボール」という意味で用いていたそう。

 

著者の城井睦夫は、書籍などを通し中馬氏のことを知り、同じ鹿児島出身であったことから、彼のことをもっと広く知ってもらいたいと、新聞連載として伝記を執筆、それが一冊になったのがこの本だ。

 

ここで、野球殿堂のホームページを見てみた。「野球殿堂博物館」というのですね。

正岡 子規 - 野球殿堂博物館

中馬 庚 - 野球殿堂博物館 

ホームページには、野球の「訳者」に関して、中馬庚が「明治27年にベースボールを「野球」最初にと訳した人で…」とあり、この伝記と同様の捉え方がされていたのがわかった。

 

ただ、著者の城井睦夫氏は、正岡子規に対しても大変な敬意を払っていて、彼のベースボールに対する愛着と熱情に対して大きな賛辞を送っている。

 

で、本の内容だけれども。

明治21年に第一高等中学校(一高の前身)に入学し、ベースボール部で活躍したという中馬氏。はじめ二塁手で、のちにキャッチャーだったとか。対外試合の様子がつぶさに綴られていて、バンカラというか、わいわい感というか、そんな躍動感。大河ドラマの「いだてん」の天狗倶楽部あたりのシーンを思い描いた。

試合の相手は、他校の学生たちの混合チームや横浜外人チーム。明治時代に日米野球が行われていたとは。(しかも初戦は29-4で大勝)

 

そして驚いたのが、現在とのルールの違い。「キャッチャーは、ホームベースのずっと後ろに位置し、投げられる球をワンバウンドで捕球していたそうである。」それが、明治25年あたりだと思うが(記述からはっきりは読み取れず)、キャッチャーはダイレクトキャッチをするようになる。そして、「審判は、現在の球審のように、キャッチャーの後ろで判定するようになった。」それまでは、審判はピッチャーの近くに立って、「ホームベースをとおる位置を見て、ストライクかボールの判定をしていたという。」

 

キャッチャーは、ダイレクトキャッチするようになったためミットを使い始めたが、それ以外のポジションは素手でプレー…。え~!痛くない??

 

ちなみに、審判はホームベースの後ろに立つようになったが、そこから塁上のセーフ、アウトも判定していたらしい。審判は視力がとびきりよくないと務まりませんねー。視力というかなんというか。

 

…と、現在の“野球”から考えると大ざっぱのようにも思えるけれども、一高の投手による「力学的に研究していたカーブの投げ方」なんていう記述もあり、科学的な側面も含めて工夫されていた様子がうかがえる。

 

中馬氏は「筆のたつ人であったらしく」、〝第一高等中学校友会雑誌”にたびたび野球についての文章を寄せ、また卒業し東京帝国大に在学中にも『一高野球部史』を書いたらしい。そして明治30年には、冒頭にも述べた『野球』という本を執筆。自らの経験で体得した記述や知識をもとに、野球のやり方を著しているということだ。

 

その『野球』という書籍から内容が部分的に引用されているが、漢字と片仮名まじりの(今の感覚からいえば)文語調。格調高いようなユーモラスのような。言文一致運動って明治時代じゃなかったっけ?…と、昔、教科書で習った記憶を辿る…言文一致の過渡期だったのだろうか。著書は球の受け方(確かに素手で受けている!)や、握り方のイラスト入り。

 

中馬氏はその後、中学校の教員となり、教頭や校長も務めたそうだ。

 

ところで、野球殿堂博物館のホームページを参照したときに、施設の概要も見てみた。東京ドームに隣接。入場料200円。図書室もある。野球好きなら行ってみたいそんな穴場が首都・東京にあるとは知りませんでした。